小手指原古戦場は『太平記』ゆかりの地です。数々の激戦が交わされました。
@ 元弘3年(1333年)に行われた新田義貞と鎌倉幕府との戦い。小手指原の合戦といわれています。
A 建武2年(1335年)に起きた鎌倉幕府再興を目指して行われた中先代の乱でも、小手指原は戦場の一つとなりました
B 南北朝の動乱に1352年に行われた足利尊氏と後醍醐天皇の皇子、宗良親王を奉じて挙兵した新田義宗との戦いは、武蔵野合戦と言います。
小手指には多くの史跡が残っております。
新田の軍勢が忠誠を誓った「誓詞橋」、源氏の白旗を立てて士気を高めた「白旗塚」。「椿峰」は新田義貞が椿の枝を折り、昼食をしたという箸立て伝説があります。北野天神社所蔵の兜の装飾品である大鍬形は椿峰から出土しました。形状、出土地からみても、その折のものと推測されております。
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さて、白旗塚・浅間さまは、歴史的な合戦を見守ってきた小手指原古戦場にそびえ立つ由緒ある史跡です。古墳や富士塚としても崇敬を集めています。しかし、諸般の事情により宗教物とみなされた石碑等は撤去せざるを得なくなりました。
富士塚
富士山の厳かな姿は古代から自然崇拝の対象となっていました。
浅間神社は富士山を信仰する神社のことです。
富士塚は富士山に登ることは厳しい修行に耐え、大変なことですが、小さい山、つまり富士塚に上ったことで、富士山に登るのと同じだけの霊験や御利益があるといわれてきました。7月1日の山開きは年中行事として大切にしてきた習わしです。山頂ではお団子が振舞われ、ナスやキュウリの奉納をすると、お返しにナスやキュウリが手渡されました。
古墳
また古代豪族の古墳ともいわれています。
古代の霊魂の考え方のひとつには、自分たちの魂は山を登っていくと考えられていて、山は崇敬の対象でありました。それも古墳に繋がります。
どの説が間違っていて、正しいのかとよく聞かれますが、どれもあっています。表裏一体です。
しかし、持ち主の山主様がもう守り切れないということで、所沢市に相談したところ、石碑や祠は宗教物なのでおけないということで撤去することとなりました。
石碑などを排除しても、それは古代からやってきた形であり、続いてきた歴史や文化を捨てることは非常にもったいないです。この地に続いてきた文化や歴史を守らなくてはならないと考え、大切になさる有志の皆様のご協力により、境内の中でもご縁の深い宗良親王の石碑と背中合わせになる形で、石碑と祠を遷座し、立派に整えられて鎮座しております。
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小手指原古戦場の白旗塚より、境内に移られた石碑にはこのようなことが書いてあります。
古武将の御魂祭れりこの塚を
護り通せと先祖より受
此の塚を壊せし者は忽ちに
霊魔を受けて死するやもあり
武蔵野の小手指ヶ原古戦場
月の光は変わらざりけり
これからも小手指の皆さまが大切にしてきた白旗塚浅間様の年中行事である山開きを引き続き当社にて7月1日に行ってまいりますので、御協力のほど宜しくお願いいたします。
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